斯波氏・今川氏・斎藤氏らが台頭した「東海」戦国勢力図
戦国武将の領土変遷史⑪
美濃のマムシ、尾張の信秀……続々と下剋上が勃発
美濃では、守護であった土岐政房の死後、嫡男・頼武(よりたけ)と次男・頼芸(よりのり)との間で家督争いがおきていた。この争いに乗じて台頭したのが斎藤道三(さいとうどうさん)である。
斎藤道三は、もともと斎藤氏の出身だったわけではない。守護代斎藤氏の小守護代(こしゅごだい)であった長井(ながい)氏を継いでいた。しかし、天文5年、頼芸を美濃守護につけるとともに、斎藤氏の名跡を継ぐことを認められたのだった。
頼芸を傀儡(かいらい)とした道三が稲葉山(いなばやま)城を拠点に美濃国の実権を掌握すると、これを不服とする頼芸は、尾張の織田信秀に支援を求める。こうして、天文16年、信秀が美濃に侵入するが、道三は加納口(かのうぐち)の戦いで織田信秀の軍勢を撃破した。
その後は信秀と和睦し、娘の濃姫(のうひめ)を信秀の嫡男・織田信長(のぶなが)に嫁がせている。道三が信秀と和睦したことで、頼芸は尾張の織田氏という後盾を喪失した。
美濃一国を実質的に押さえた道三に、傀儡としての頼芸は、もはや必要なくなっていたのだろう。天文21年、道三が大桑(おおが)城を居城としていた頼芸を攻めると、頼芸は、抗戦を諦めて落ちのびた。ここに守護土岐氏は滅亡し、斎藤道三が美濃の太守になったのである。
こうして、尾張の織田信秀、駿河の今川義元、美濃の斎藤道三らが勢威を拡大するなか、その勢力争いに巻き込まれたのが三河の松平広忠(ひろただ)だった。松平氏は、広忠の父・清康(きよやす)が岡崎城を拠点に三河を平定するほどの勢威を誇ったが、天文4年、織田信秀と対陣していた尾張の森山(守山)の陣中で家臣に暗殺されてしまう。
このいわゆる森山崩れにより松平氏の勢威は急速に衰え、広忠は織田信秀による三河侵入を阻むため、駿河の今川義元に服属した。その証しとして駿府に送られたのが、広忠の子・家康(いえやす)である。
そして、その広忠も天文18年、家臣に暗殺されてしまう。享年は24だった。後継者であるはずの家康は駿府(すんぷ)で人質となっていたため、岡崎城には今川氏の重臣が入っている。今川義元は、岡崎城を拠点に、尾張への侵攻を図っていった。

花蔵の乱に勝利し家督相続すると駿河・三河・遠江を制圧。“東海一の弓取り”と評され今川家の最盛期を築く。都立中央図書館蔵
監修・文/小和田泰経